無性に牛乳を飲みたくなったので、冷蔵庫を開いて1リットルの牛乳パックを取り出す。

持ち上げた瞬間、その軽さで察してはいたものの、マグカップに半分も注がないうちにパックは空になってしまった。


仕方がないので、買い置きの牛乳パックを出す為にもう一度冷蔵庫を開ける。

上段に、2本の牛乳パックが見える。どちらも違うメーカーのものだ。

どちらの方が賞味期限が早いか。

横倒しで収納されている牛乳パックの上部に手をかけ、印字された日付を読み取ろうと背伸びする。

1
本は928日。じゃあ、もう1本は?

もう一つの牛乳パックの賞味期限の日付も確認しようと、薄暗い冷蔵庫の中に目を凝らす。


――――10
1日だった。








その日付を確認した瞬間、生暖かいものが頬を伝った。

自分が泣いていると気付くまで、暫くかかって。

さらに、開けっ放しにしていた冷蔵庫の発する警告音に驚く。



溜め息を吐きながら扉を閉める。

今日の日付は926日。

ノロノロと少量の牛乳が入ったマグカップを持ち上げ、飲み干す。

牛乳を飲みたい衝動は消えてしまっていた為、ちっとも美味しくなかった。


否、違う。牛乳が美味しくなかったんじゃない。

――――
きっと私の後悔が、牛乳を不味くしたんだ。












オキザリス














佐伯虎次郎は、人気者だ。

顔良し、頭良し、運動神経良しと三拍子揃った上、ノリも良いときている。

それも、ノリが良いと言ってもそれは非常に上品なノリの良さで・・・・・・あぁ、上手く説明できないのがもどかしい。

けれど、とにかく彼はノリが良いのだ。ノリと言うより、感じが良いと言った方がしっくりくるかもしれない。

何にせよ、こんな男の子がモテないはずもなく。

佐伯くんは、男女問わず、とにかく良くモテた。

そして、学区域が広がり、生徒数が小学校に比べて5倍近くなる中学校に上がってからというもの、そのモテっぷりは拍車がかかるばかりだ。






一方、私はと言うと。

顔並(であると思いたい)、頭中の上(成績では)、運動神経平均値(スポーツテストの結果では)という平凡な人間で。

別段これといった特技もなく、趣味は読書という地味さを誇る。

・・・・・・・・ちっとも誇れることではないけれども。











「ちょっとサエ、サエ!聞いてよぉ」



お菓子のような甘くて可愛い声が、ページを捲る私の手を止めた。

声の主は、華のある、活発な印象の女の子。顔も可愛くてサバサバしている彼女は、男の子たちに人気がある。

そんな彼女の呼びかけに、佐伯くんは穏やかな声音で返答した。



「どうしたんだい?何かあったの」

「アンタの後輩のダビデくん!どうにかなんないの、あの子」


プリプリした調子で言われた言葉に、佐伯くんは静かに苦笑した。


「またダビデがつまらないギャグでも言った?」

「言った言った。そりゃあもう、言いすぎなくらいにね。バネさんがいないから話が進まないったらありゃしないわよ」

「でも委員会の会議なんだから、ダビデも真面目にしてるだろう?」


佐伯くんの言葉に、そういえばあの子は体育委員だったな、と思い出す。

私だったら絶対にやりたくない役職に立候補で着いた彼女を見て、明るくて快活な子はやっぱり違うなぁと妙な感心をしたものだ。

そして察するに、どうやら天根くん―――ダジャレばかり言う佐伯くんの部活の後輩だ―――も体育委員らしい。さすが男子テニス部、といった所だろうか。


「大事な話の時は真面目にしてるわよ。でもね、ふとした瞬間に言うのよ、ポロッと!あのつまんないギャグを!!」

「そんなに目くじら立てなくても・・・・・・。直に嫌でも慣れるからさ、我慢してやってくれよ」

「無理ですぅ!ツッコミのいないボケなんて耐えられないっつーの」


ポンポンと繰り広げられる、会話のキャッチボール。

楽しそうなその声は、先生が教室に入ってくるまでずっと続いて。

やっとのことで文庫落ちした、心待ちにしていたはずの小説の内容は、ちっとも頭に入ってくれなかった。










サエ、というのは佐伯くんの愛称だ。

彼と親しい友人や、小学校からの同級生は、皆彼をこう呼ぶ。

だから、私も昔は気軽に「サエ」と呼んでいたものだ。

あの頃は、それが普通で。中学に上がってからも、私は彼をサエと呼び続けるのだと思っていた。



中学生になるというのは、一気に大人になったように感じる一種のイベントだ。

電車やバスの運賃も大人料金になる。

感覚としてはまだまだ子どもだし、事実子どもなのだけれど、社会からは場合によって大人か子どもか、都合が良い方に分類されてしまう。

どっちつかずな戸惑いと、大人になって行くというちょっとした高揚感。



ぼんやりと佐伯くんと同じクラスになれたらいいな、と思っていた入学前。

小さな願いは残念ながら、叶うことはなかった。

小学校に比べればクラス数は倍近いし、仕方のないことだけど。

でも、このクラス分けこそが私の命運を分けたのだ。




二年生になって、佐伯くんと同じクラスになった時。

嬉しくて嬉しくて。でも、嬉しいだけでは済まなかった。



「おはよう、


大勢のクラスメイト――――それも、女の子が若干多目。

彼らに囲まれながらも、佐伯くんは胸を高鳴らせて教室に入った私に挨拶をしてくれた。

佐伯くんが声をかけてくれたことにビックリして、目線を彼の方に向けた瞬間。

―――――
目が、合ったのだ。

佐伯くんではなく、佐伯くんを取り巻いていた一人のクラスメイトの女の子と。



「おはよう・・・・・・・佐伯くん」



掠れた声で返した挨拶は、言おうと思っていた彼の愛称付きのものではなく、どこか他人行儀なものとなった。



「久しぶりだね。元気だった?去年はクラスが離れてたから全然会わなかったもんなぁ」

「うん、久しぶり。よろしくね」


佐伯くんが話しかけてくれることはとても嬉しかったけれど、取り巻きの彼女たちの視線が怖かった。

目が合った女の子の瞳はこう言っていたのだ。

―――――
なんでアンタなんかに佐伯くんが話掛けるのよ、と。










それ以来、私は彼を「佐伯くん」と呼ぶようになった。

佐伯くんは小学校時代と変わらず、私を「」と呼ぶけれど、元々それは愛称ではない。

何となく、「サエ」とは呼び難かった。

彼をサエと呼ぶ女の子は、中学では彼と親しい子ばかりだ。

そこまで親しくない、小学校時代の同級生の女の子も彼を「サエ」と呼ぶが、彼女たちはそんなに佐伯くんと関わる機会がなかった。

幸か不幸か、C組に同じ小学校出身の女の子はいなかった。

だから私が彼を「サエ」と呼ばなくても、誰も変だと思わないのだ。

同じ小学校だった男の子で妙だな、と思った子もいるかもしれないが、男の子はそういうことは気にしないのだろう。面と向かってツッコまれたことはない。

もちろん、佐伯くん自身にも。
















佐伯くんは、小学生の頃から人気者だった。

人の話をよく聞いて、それを広げるのが上手くて。

だから皆、面白いことがあると佐伯くんに話したがった。

もちろん私もその一人で、何かにつけて「サエ、サエ」と、まとわりついていたものだ。



今もそうだけど、佐伯くんはいたって普通の男の子だ。

けれど、時折周りの男の子たちに比べてグッと大人びて見えることがあって。

その度に私はドキドキしていたものだ。


私が思うに、彼の持つ大人びた顔は、お姉さんがいる男の子特有のものだろう。

それも、穏やかで優しい、素敵なお姉さんがいる男の子に限られる。




一度だけ、休日に肩を並べて歩く佐伯姉弟を見たことがある。

顔付きは似ていなかったけれど、雰囲気から二人が姉弟だと直ぐに解り、それがとても不思議だった。

買い物帰りだったのだろう、佐伯くんの手には近所のスーパーのビニール袋が提がっていて。

姉相手だろうとフェミニストであるという、佐伯くんの大人な部分を垣間見た気がしたものだ。


それでもやっぱり、サエはサエで。

学校で会う佐伯くんは、いたって普通の男の子だった。


















――――、ちょっといい?」



放課後、帰ろうとしていたところを佐伯くんに引き留められたのは、924日のことだ。

佐伯くんはよく私に話掛けてくれて、私はそれが嬉しかった。

優しくて気遣いが出来る人だから、一人でいることの多い昔馴染みの学友である私を放っておけなかっただけだろうとは思うけど。




「なぁに?佐伯くん」


そうやって時折気にかけてもらっているとはいえ、放課後に話掛けられる理由は解せなかった。

私に何の用事なんだろうか。

そんな疑問で頭をパンパンにしながら問うと、


、この後何か用事あるかな?」


申し訳なさそうに私の予定を確かめる。

掃除当番でもないし、特に予定もないので首を振ると、佐伯くんはホッとしたように微笑んだ。


「オジィが、に会いたいって言ってるんだ。今日、男子テニス部の部室に顔出してくれない?」

「・・・・・・・オジィが?」

「うん」

「木材のこと?」

「さぁ、特に用件は言ってなかったけど。それで、どうする?顔出せる?」


曖昧に頷くと、佐伯くんはニッコリと笑い、


「じゃあ、行こうか」


廊下を指差すと、教室から出て行き、立ち止まる。

そして、私が隣に並ぶのを待ってから、テニス部の部室へと歩き出した。



「俺の誕生日まであと一週間なんだ」

「うん、覚えてるよ。佐伯くん、101日生まれでしょう」


本当は、佐伯くんの誕生日だから覚えていたのだけど。

1日生まれって覚えやすいよね」、なんて呟いて誤魔化す。

それでも、「佐伯くんは覚えてくれてたなんて嬉しいなぁ」と微笑んでくれて。

部室へと向かう道すがら、そんな会話のキャッチボールが楽しかった。













「オジィ、を連れてきたよ」


佐伯くんのそんな言葉と共に男子テニス部の部室に入ると、中にはオジィしかいなかった。

ちょこん、とパイプ椅子に器用に正座で腰掛けたオジィは、私の姿を認めると、


「・・・・・・・・うぇるかむ。」


と、カタコト英語で歓迎してくれた。

震える指で空いているパイプ椅子に腰掛けるよう促されたので、ドアの一番近くにあったパイプ椅子に座った。

佐伯くんは、立ったままで腕を軽く組み、壁にもたれている。




「・・・・・・・オジィが私に何か用があるって、佐伯くんに訊いたんだけど。何かな?」


「うぇるかむ」と言ったきり、オジィが何も話さないので痺れを切らせて問い掛けたが、オジィはボーッとしたまま私の顔を見詰めているだけだ。



「木材のこと?お祖父ちゃんに伝言するのは構わないけど、私自身は木材のことにあんまり詳しくないから、お祖父ちゃんに直接言った方が都合が良いと思うよ」


私の祖父は、木材の卸売りをやっている。

その為、ウッドラケットを作っているオジィとは昔から懇意にさせてもらっていた。

祖父の見立てた木材でオジィがラケットを作るところを見るのが大好きで、小さな頃は飽きもせず、オジィの隣でジィッと見ていたものだ。

祖父には気を散らせて邪魔になるから止めろと言われたが、オジィは別に構わないと祖父を宥め、私を傍に置いてくれた。





「・・・・・・・久しぶりに・・・・顔が見たくなったんでのぅ」


特に用がある訳ではない、と言うオジィに肩の力が抜けたけれど、会いたいと思ってくれたことはとても嬉しくて。

考えてみれば、中学に上がってからオジィと話すのは初めてかもしれないと気付き、驚いた。



「あぁ、そうだね。小学校の頃は、もよくテニスコートに来ていたけど、中学に上がってからはパッタリ来なくなったからなぁ」


忙しかったのかい、と尋ねる佐伯くんを、曖昧な笑みではぐらかす。

本当は、ギャラリーが多い、部活の花形である男子テニス部のコートには近寄り難かったから、行かなかっただけだ。




「・・・・・・佐伯くん」


今日は部活はないの?

そう続けようとした所で、オジィが「」と小さく私の名前を呼んだ。



「なぁに?オジィ」


佐伯くんからオジィへと視線を動かす。

オジィはジィ、と私の顔を見詰めながら、小さく口を開いて問い掛けた。



「なんでぇ・・・・・・サエのこと、サエって呼ばなくなった?」



自分の顔が強張ったのが解った。

顔色も変わっているだろう。


反射的に佐伯くんを見ると、佐伯くんの顔からも穏やかな笑みが消えていた。

目だけがゆっくりと動き、私の視線を捉える。





「・・・・・・・・どうしてなんだい?」




紡がれた言葉は、オジィの質問に答えるよう、急かすものだった。

口元は笑っていたけれど、目は笑っていない。

微笑んでいるように見えるけれど、佐伯くんは真顔だった。




「どうして、って・・・・・・・・」

「小学校の頃は呼んでたよね?」


俺のこと、サエって。

有無を言わさぬ佐伯くんの表情に言葉を失う。

とてもじゃないけれど、本当のことを言う勇気なんてなかった。






「・・・・・・・・何となくだよ」

「何となく?」


佐伯くんの眉尻が上がり、不機嫌そうな顔になる。

私の答えが不快だったらしい。

いつも穏やかな彼の、強張った表情が怖くて俯きながら、言い訳のように呟く。



「・・・・・・もう、子どもじゃないんだし」






この一言で、佐伯くんの纏っていた空気が変わった。

それを肌で感じ取り、慌てて彼に瞳を向ける。

交わった視線は、直ぐに私から反らすことになった。

―――――
見ていられなかったのだ。

佐伯くんの目には、失望の色がありありと浮かんでいたから。



















それから居たたまれなくなった私は、モゴモゴと言い訳めいたことを言いながら理由を付け、逃げるように帰宅した。

それから2日経った今日、926日。

この2日間、佐伯くんが話掛けてくれたことは一度もない。







―――――
私が何かを間違えてしまったことは、明白だった。
















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