小学生の頃、ラケットを削るオジイの手元をキラキラした瞳で見詰めていたクラスメイトの女の子。
中学に上がってクラスが離れた後も、彼女のことはずっと気になっていた。
オキザリス
は、一人で居るのが好きらしい。
小学校の頃は、「サエ、サエ」と他の子に交じってよく話掛けてくれた記憶がある。
けど、中学二年になって再び同じクラスになったは、休み時間に一人で本を読んでいることが多い。
友達がいない訳ではないようで、昼はクラスの女子数名と一緒にお弁当を広げている。
そして、と仲が良いグループの女子も、と同じような子たちばかりだった。
一人でも別に大丈夫な女の子たち。
一人ではトイレにも行けない女子もいる中で、彼女たちは皆から密かに一目置かれているように思う。
一方、俺はというと、休み時間は誰かしらと話している。
そんな群れている俺たちの様子を、たまにが見ていることがある。
横目で、チラリと一別するのだ。
一度、「ごめん、五月蠅かったかな?」謝ったことがあるが、は笑って首を振った。
「そんなことないよ。楽しそうで良いな、って思うし」
小さな声で、控えめに喋るの声は、聞き逃してしまいそうな繊細さがある。
そして、俺は彼女の声を聞き逃すまいと、耳に全神経を集中させるのだ。
聞き逃してしまうのは勿体ない。そう思う。
よく、大した用もないのにに話掛ける。
何故なら、ガラス細工のように繊細な彼女の声を聴きたいから。
幸いなことに、同級生のよしみかは快く雑談に応じてくれている。
呼び名が、小学校の頃のように「サエ」でなく「佐伯くん」であることが気にはなったけど。
それでも、単純に嬉しかった。
そんな努力のかいあってか、がよく俺を見ていることが多くなった。
本を読んでいた目線をスッと上げて、俺へと移す。
教室を横切るついでに、さり気なく俺を見る。
ずっとを見ていたから、俺がの視線に気付くのは自然で、容易かった。
だから、自惚れていたんだ。
俺のこと、意識してくれたんじゃないかって。
だから、急にサエって呼ばなくなったんじゃないかって思った。
――――実際は、違った訳だけど。
あの時は、突き落とされたと思った。
『・・・・・・・・何となくだよ』
はそう言った。
何を問われているのか解らない、という顔をしながら。
『・・・・・・もう、子どもじゃないんだし』
中学生なんてまだまだ子どもだ。
俺はそう思っていたけど、はそうではないらしい。
中学生になってからの、彼女の態度。
群れることをせず、静かな佇まいで本を読む彼女は、確かに大人っぽかった。
そんな彼女にしてみれば、俺の行動は子どもじみたものだったかもしれない。
が「サエ」と呼ばなくなった理由に納得いかず、ジッと彼女を睨むように見詰め続けた。
は俺の視線に困惑したような顔をしたけど、直ぐに目を反らして「観たいテレビがある」と部室から出て行ってしまった。
子どもみたいなことをするような人に、構っている暇はない。
去り際の彼女の足早な靴音がそう言っているように聞こえたのは、俺の考えすぎだろうか。
「サエが急ぎすぎるから・・・・・逃げてしまったのぅ」
「逃げた?」
が出て行ったばかりのドアを眺めながら、オジィがボソボソと呟いた。
逃げた、という形容が腑に落ちず、思わず復唱してしまう。
逃げた?が?
――――― 一体何から?
俺から逃げた、しか答えはありえない。
けど、俺にはが逃げたとは到底思えなかった。
「女の子の方がぁ・・・・・精神的な成長は早い。・・・・・気に病むな、・・・・サエ」
ゆっくりとドアから俺へと視線を移しながら言う。
「精神的な成長・・・・・か」
「女の子は・・・・おしゃまだからのぅ」
おしゃま。に似合わない表現だ。
をおしゃまと言う意味は解らないが、どうやら俺を慰めようとしてくれているようだった。
「ごめん、オジィ。を直ぐに帰らせるようなことして」
「気にするな・・・・顔は見ることができた・・・・それに・・・・そもそもの発端は、・・・・・儂じゃしのぅ・・・・・」
「・・・・・・確かにその通りだ」
肩を竦めてみせると、オジィはフォッフォ、と解り難く笑った。
それから四日経ち、俺の誕生日目前となった9月30日。
この四日間というもの、に話掛けることが出来なかった。
気不味かったのもあるが、単純に怖かったのだと思う。
話掛けて、邪険にされたら。
そう思うと、とてもじゃないが声を掛けることは出来なかった。
自分がこんなに小心者だとは思わなかったな、と我ながら驚いている。
明日は誕生日だというのに、生徒会は容赦ない。
我らが会長には涼しい顔で、「お前は社会人になったら誕生日だからと仕事を休むのか?」と言われた。
「会長、誕生日休暇って知ってるかな?」
「残念ながら、生徒会には存在しないね。そもそも君の誕生日は明日だよ、サエ」
笑顔で言われた言葉に逆らう気は毛頭なかった。
ただちょっと、「明日誕生日なんだけどな、俺」と思ってしまっただけだ。
誕生日は、良い一日にしたい―――誰もがそう思うだろう。
「ちぇ、容赦ないな」
気の置けない間柄である会長に、わざとらしく肩を竦めてみせる。
知らんぷりを決め込んでいるらしい会長に苦笑してから、「やれやれ」と資料を手に取った。
「副会長殿。それ、去年のデータ。今年のはそっち」
直ぐ様、間違いを指摘する声が飛んだ。
資料に目をやると、確かに年号が去年のものだった。
目聡い会長に「しっかりしてるな」と言ってやると、「生徒会長だからな」と澄ました顔で言われた。
先生に報告があるという会長を残し、一人で昇降口に向かった頃には、すっかり日が落ちてしまっていた。
もうすぐ本格的に冷え込んでくるんだろうな、と思うと少し憂鬱だ。
テニス部のユニフォームは、夏はいいが、いかんせん冬はちょっと寒い。
窓の外を眺めながらそんなことを考えていると、前方でガシャンと何かが落ちる音がした。
視線を廊下に戻す。
「―――――・・・・」
が、居た。
反射的に筋肉が硬直する。緊張しているな、と他人事のように思う。
よくよく見れば、の足下には鞄が転がっており、先程の音はが荷物を落とした音だと解った。
荷物を拾おうと、はしゃがみ込む。
彼女を見ながら、いっそ知らんぷりをしてこのまま通り過ぎてしまおうか、と思った。
情けないな、と苦笑が漏れる。
―――どうせそんなこと、出来やしないのに。
軽く頭を振って、考えを変える。これは、話し掛けるチャンスだ。
「大丈夫かい?」
ピクリと、の肩が震えた。
俺が声を掛けたことに驚いたらしい。
無理もないか、と思う。ここ数日、俺がを避けていることは、だけには明白だったはずだ。
たとえ、他の誰も気付いていなくても。
「・・・・だ、大丈夫」
甘くて、崩れやすそうなの声を久々に聞いた。
おどおどと視線をさ迷わせながら立ち上がると、は俺の方を見ずに、
「さ、佐伯くんは・・・・・どうしてこんな時間まで校内にいるの?」
「今日は生徒会の仕事があってね。やむなく部活は休ませてもらったんだ」
「今日の部活を休ませて欲しい」と言った時、誕生日サプライズの用意でもあるのか、テニス部からは諸手を挙げて送り出された。
それはそれで、正直複雑だったりするんだけどなぁ、なんて苦笑したものだ。
「は――――図書室?」
「うん。今日、当番だったから・・・・・」
「そうか。今帰り?」
コクリと頷くを見て、柔く微笑む。
「じゃあ、送っていくよ。暗くなってきてるし、家も同じ方向だしね」
小学校からのよしみでの家は知っている。
驚いたように俺の顔を見詰めたを見て、「ああ、やっと目が合ったな」と思う。
断ろうと唇を開き掛けただろうを、「これでを送らずに帰って、万が一襲われたりしたら寝覚めが悪いからね」と説き伏せた。
こう言うと、は困ったような顔はしたものの、「じゃあ、お願いしようかな」と申し訳なさそうに言った。
街路樹と電灯の間をゆっくりと、の速度に合わせて歩く。
は気不味いのか、先程からちっとも会話が弾まないでいる。
話を振っても、「うん」とか「そうだね」という彼女の相槌で終わってしまう。
―――マズイな、と内心焦る。つまらない奴だと思われてしまったかもしれない。
当たり障りのない話題も尽きてしまい、沈黙が重くのしかかる。
もっとも、重いと感じているのは俺だけかもしれないけど。
そんなことを考え、憂いていたので、がポツポツと言葉を落とした時は、本当に驚いた。
「―――――佐伯くん、あの・・・・・一日早いんだけれど」
お誕生日おめでとう、と心地良い声に告げられる。
驚いてを見詰めると、彼女は困ったようにはにかんだ。
「明日だと、言えないかもしれないから」
ホラ、佐伯くんは人気者じゃない―――?そう続ける彼女を、未だに見詰めるしか出来ない自分が歯痒い。
腕を取って、引っ張って――抱き締めてしまおうか、と邪な考えが頭を掠める。
どうせそんなこと、出来やしない癖に。
「誕生日、覚えててくれたんだ」
ようやく一言そう発すると、がポカンとした顔をした。
「小学生の頃、皆で毎年お祝いしたじゃない」
覚えてるよ、とが微笑む。彼女が言う皆、というのはテニス関連の皆だ。
今年もバネや樹っちゃんたちな何やら計画してくれているみたいだな、と薄々勘づいている――もちろん知らないフリをしてはいるが。
「でも、中学に上がってからは来てないだろ?」
少しの悪意を込めて、意地悪くそう言う。
は苦笑しながらも、滞りなくスルッと「中学に上がったら、何か疎遠になっちゃったから」と答えた。
「―――それで、俺のこともサエって呼ばなくなったのかな?」
何気ない口調になるよう、精一杯の努力をしながら問うと、はますます困ったような顔になった。
「この間も言われたね」と固くなりつつある表情で苦く微笑む。
「あの時は子どもじゃないんだし、って言われたな」
「ごめんなさい・・・・感じ悪かった?」
責めるような言い方に、が恐縮したように頭を垂れた。
「中学に上がってから、佐伯くんはますます人気者になったから―――あだ名じゃ呼びづらくて」
「どうして?」
「だって、私と佐伯くんじゃ全然釣り合わないし」
ブンブンと手を振りながら答えたに、軽く失望した。
釣り合わない、という言葉がチクリと胸を刺す。
「――――俺はそんなに高尚な人間じゃないよ」
「ごめん、感じ悪いよね、こんな言い方――違うの、佐伯くんが釣り合うとかそんなこと気にしないのは解ってるんだけど、周りの目が気になっちゃって」
「・・・・・周りの目?」
「うん。ホラ、佐伯くんは人気者だから。私みたいな普通の子が佐伯くんと仲良くしてるとズルイって思われちゃうんだよ」
仕方がないことだ、とでも言うようにが寂しく笑う。
寂しそうに笑ったのはだが、寂しいのはこっちの方だ、と思う。
勝手に距離を作って、垣根を作って。それでいて寂しそうにするなんて、それこそ狡い。
「―――俺は、と他人行儀になるのは嫌なんだけどな」
抑える努力はしたが、フツフツと湧き続ける怒りは否応なく言葉の節々に顕れていた。
その声色に、が身を小さくする。怒らせたのだと解っているのだ。
「・・・・・・・ごめんなさい」
「謝って欲しい訳じゃないよ。・・・・人気者?俺が?にはこうして、距離を置かれているのに?」
誕生日おめでとう、という言葉にもらった嬉しさがみるみる萎んでいく。
そうだ、誕生日目前だというのに、何故謝られ続けなければならないんだ。
「俺は、何も変わってないよ。変わったのはむしろ、の方だ」
言ってやると、が目を丸くした。
気付いてないのだろうか?でも、案外自分のことは解らないものかもしれない。
「テニス部に遊びに来なくなったのはの方だ。皆の輪に入らず、本に夢中になっているのもだ。―――それを、俺が人気者だからだ、って?俺のせいにするのか?」
「佐伯くん、違うの―――」
「何が違うんだ?」
「佐伯くんは何も悪くない。変わったのは環境の方だもん、佐伯くんのせいじゃない」
ただでさえガラス細工のように脆そうなの声が、ますます弱々しくなる。
どうしてこんなことになっているんだろうか。
明日は誕生日で、なのにとは上手く行かなくて、それでいては泣き出しそうな顔で―――。
「・・・・・・、ごめん」
「どうして佐伯くんが謝るの?」
「を困らせたい訳じゃないんだ」
緩く頭を振りながら言うと、は立ち止まった。つられて俺も立ち止まる。
「そんな困ってなんて――――」
「否、今からきっと、困らせるから」
「え・・・・?」
怪訝そうなに微笑み、「お願いがあるんだ」と告げる。
「プレゼント、くれないか?」
「プレゼント・・・・?」
「そう、誕生日の。今、直ぐに」
「え、あ、でも・・・・私今、手持ちが少なくて・・・・」
わたわたと財布を探すようにポケットをまさぐるに苦笑する。
「大丈夫だよ、お金はかからないから」
一拍置いて、息を吸い込む。
「―――また、昔みたいに、サエって呼んでくれないか?」
の顔から表情が消えた。
困っているのか、嫌がっているのか。それすら解らない。
やがて、の唇が震えるように開いた。
おずおずと、二文字の言葉を紡ぐ。
「―――――サ、エ」
「・・・・・ありがとう、」
懐かしい、の声。
遠い昔のようで、ついこの間までこれが普通だったのだ。
「サエ・・・・サエ、おめでとう・・・・・」
そう思ったのは俺だけではなかったようで。
壊れたレコードのように「サエ、サエ」と呟き続けるは、気付いたときには涙を流していた。
理性のタガが外れて、を無理矢理腕に押し込める。
泣き続ける彼女が抵抗しないことをいいことに、ギュウと締め付けた。
「環境が変わったとか、釣り合わないとか、そんな寂しいこと言うなよ・・・・・」
掠れた声でそう言うと、嗚咽混じりに「ごめんなさい」と返事がきた。
――――が泣きやんだら、彼女の手を取って再び歩きだそう。
そう思った。
それは、「どうしてこうなってしまったのか」と憂うよりも、よっぽど価値のあることには違いがなかった。
“Don’t desert.” Closed.
大丈夫、きっと、まだ間に合うはずだから。
佐伯くん、お誕生日おめでとう!
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