今は少しだけ切なくて、辛いような気がする。
―――――――けれど、いつかは、きっと。
限りなく透明に近い
――――――――可愛いな。
フッと頭に浮かんだ単語に、真田弦一郎は己の頭を疑った。
俺は今、何を考えた?
ドクドクと脈打つ心臓を何とか宥めながら、混乱する頭をブルリと振る。
その様子を必然的に間近で見たは、当然ながら疑問を口にした。
「真田くん、どうしたの?」
本人は自覚していないようだが、は自分より上背のある人間と会話をする時、小首を傾げる癖がある。
黒目がちな大きな瞳で、ちょこんと首を傾げるのだ。
そのの姿を見て、真田は「可愛い」と思ったのだが、それは彼にとって俄に信じ難いことだった。
真田には女を見る目がない、とは丸井ブン太の弁だ。
丸井が熱を上げていた女性タレントのどこが可愛いのか解らないと真田が言うやいなや、信じられないと糾弾された。
その女性タレントに限らず、世間一般が「可愛い」と持て囃す女性の可愛さが、真田にはピンとこない。
「美人」と言われる人ならば未だ、確かに整った顔だな、くらいの感想は持てるのだが、「可愛い」に関してはお手上げだった。
犬は可愛い。猫も可愛い。でも、人間の女は可愛いとは思えない。
それは十代男子にしてみれば真田が思うよりも異常なことのようで、彼は密かにそれを気にしていた。
だが、可愛いと思えないものは可愛いと思えないので致し方ない。
人間の女の可愛さは今ひとつ解らん。
―――――――そう思っていたはずなのに、
可愛い、だと?
「真田くん?嫌だ、どうしたの本当に・・・・・。真田くん?」
具合でも悪いの、と真田の顔を覗き込むように身を乗り出してきたにハッとし、真田は少し後退した。
「真田くん?」
「あぁ、スマン・・・・・・。少々考え事をしていたものでな」
我ながら苦しい言い訳だと思ったが、は「そっか」と安心したように呟き、納得してくれたようだった。
「で、熱心に何を考えていたのかな?」
悪戯っぽく言うの質問に一瞬固まる。
何を考えていた、と問われても何も考えていないのだからパッと答えが出て来るはずもない。
しかし、元を正せばに「考え事をしていた」と嘘を吐いた自分が悪い。
真田は苦虫を噛み潰したような顔になり、どう答えたものかと思考を巡らせ始めたが、
「―――――あ。もしかして、社会の選択科目について考えてたの?」
が推論で話を進めだしたので、気不味い気分になりつつもそれに乗ることにする。
「・・・・・む。まぁ、そうだな」
「真田くんは何にするの?私は公民にしようかなぁって思ってるんだけど」
「俺は歴史だ」
歴史は真田の得意科目である為、迷いなく即答すると、は軽く頷いた。
「そうなんだ。私も歴史は好きなんだけどね、特に好きなのが幕末から明治維新までの辺りだからやめたの」
「・・・・・・残念だが、幕末以降は戦国時代などに比べれば広く浅く学ぶ範囲だな」
「そうなんだよねぇ・・・・・。それで私、将来は公務員志望だから、公民にすることにしたの」
経済は難しそうで嫌だったしね、とチロリと舌を覗かせる。
その仕草がまた可愛らしく思えて、
「・・・・・・・そ、そうか」
何とか返事を返したものの、真田はたじろいでいた。
「―――――あ、柳くんだ」
の声に、下向きがちだった真田の目線が上がる。
目線の先には丁度A組の扉。そして、確かにそこには柳の姿があった。
「・・・・・珍しいな」
思いがけぬ柳の来訪に、真田はポツリと呟く。
A組とF組は同じ校舎内に存在するものの、階が違う。
隣り合ったクラスでもないので、もちろん合同授業もない。
それ故、F組の柳がA組を訪ねてくることはほとんどなかった。
自分を訪ねてきたのかと思い、真田は入り口で誰かを探している様子の柳に声をかけた。
「何か用か、蓮二」
「・・・・・あぁ、弦一郎。おはよう」
朝練のない日だったので、顔を合わすのは今が初めてだった。
律儀な柳におはよう、と返し、
「それで。何か俺に用か?」
挨拶の後、柳がなかなか用件を口にしないのでそう問うた。
すると柳は苦笑しつつ、
「いや、弦一郎には何も用はない。用があるのは―――――」
「もしかして、私?」
真田に向けていた顔をクルリと柳に向けながら、が柳の言葉を遮った。
「―――――何だ。そこにいたのか、」
真田に向けたのと同じ苦笑を浮かべながら、柳は教室内へと歩を進める。
どうやら、に用があるらしい。
「失礼だなぁ。後ろ姿で解らなかったの?」
「の髪型は、データが多すぎて絞り切れないからな。予想が出来ない」
柳の言葉に、そういえば、と思う。
確かにの髪型は変則的に毎日違う。
今日の髪型は上の方で結わいたポニーテールだが、いつだったか真田には何と呼べばいいのか解らない、複雑な髪型をしていた記憶がある。
「・・・・・・で?今日は、何をすればいいのかな」
ちょこん、と愛らしく首を傾げるが相変わらず可愛くて、真田は反射的に俯きがちになる。
それに対し、柳は別段動揺することもなく、すまなそうな表情で小脇に抱えていた数冊の本を差し出した。
「いつもすまないのだが、この資料を返却しておいて欲しい」
「了解」
柳が片手で抱えていた本を、は大事そうに両腕で抱くように受け取る。
「よろしく頼む」
微笑を浮かべながら、柳が言う。それに対しが、
「はいはい。よろしく頼まれましたよっと」
軽口を叩き、ペロリと舌を出す。
「あ。柳くん、もうすぐ予鈴鳴るよ」
器用に首だけを動かし、教室の壁掛け時計を眺めながらが忠告する。
予鈴までは5分以上時間があるが、自教室が遠い柳は早めに戻った方が良い。
「そうだな。では、そろそろ自教室に戻るとしよう。弦一郎、また後でな」
「うむ」
真田には名指しでしっかりと別れの言葉を告げた柳だったが、には軽く手を振るだけで挨拶に代えた。
もでヒラヒラと本を支える両手の10本指だけを器用に動かし、それに応える。
「蓮二と知り合いだったのだな、」
柳が扉から姿を消したのを見届けてから、真田はそっと口を開いた。
素朴な疑問を口にしただけなのに、何故か妙な罪悪感がある。
まるで、その質問に下心があるような、そんなちょっとした罪悪感。
「うん。私、図書委員だから」
「・・・・・・なるほどな。蓮二はよく図書室を利用しているから顔なじみになったというわけか」
「そうなの。柳くん、生徒会やら部活やらで多忙なせいで、期限までに本を返すのが難しいみたいだから」
柳くんがどうしても都合がつかないときには代わりに返却を引き受けてるの、とニッコリ微笑む。
「・・・・・・・たるんどる」
「は?」
キョトン、と真田を見上げるの表情がまた可愛らしい。
だが、そんなことを考えている場合ではないと自分を律する為にわざとらしく咳払いをして、
「多忙だろうが何だろうが、自分で借りた以上は責任を持って返却せねばならんだろう。それも、あろうことか女子に代役を頼むとは呆れる」
蓮二ともあろうものが、と渋い顔をする真田を、はポカンと見詰める。
そのまましばし真田を眺め続けていただったが、やがてハッとした表情になり、慌てて口を開いた。
「ち、違うの!私が無理矢理引き受けたようなものだから、柳くんは悪くないの!!」
ワタワタと両手を振り回しながら、泡を食って喋る。
「が無理矢理引き受けた?」
意味が解らず復唱する真田に、はあうあうと言葉にならない奇声をあげる。
それからチラ、と上目遣いで真田を窺う。
「―――――・・・む」
頬を淡く染めたに見上げられ、たじろいでしまった。
そんな自分にドギマギしつつも、何とか真田は平静を装い続ける。
「真田くんて、口は堅い方?―――――って、訊くまでもないか」
答える前に勝手に納得し、は真田に顔を近付けてくる。
ドギマギする真田には構わず、
「役得なの。私、柳くんのことが好きだから。本の返却の代理、っていう立場で繋がってられるでしょ」
小さな声で、囁くように、早口で言う。
内緒にしてね?真田くんを信頼して言ったんだから――――・・・。
真田が秘密にしないとは微塵も思っていなさそうな調子で、悪戯っぽく言うをぼうっと見詰めながら、真田は湧き上がってくる感情を持て余していた。
蓮二は、彼女のことをどう思っているのだろうか。
ぼんやりとそう思い、先程の柳がに向けた微笑を思い出す。
今ではそれが、愛しいものを見るかのような、とても優しい笑みだったように思える。
自分は恋愛関係に決して聡くないことを、真田は知っている。
しかし、それでも何となく、解ってしまったような気がしていた。
陳腐なテレビドラマのようだな、と我ながら呆然とする。
戦友である柳と同じ―――――・・・。
そこまで考えて、真田は軽く咳払いをした。
違う。そんなことは、断じてない。
自分に言い聞かせるように、念じ続ける。
―――――今ならまだ、戻れる。
そんな気がする。蓋をして、なかったことにしてしまえば良い。
きっと、自分だけの中で、消化しきれる。
いつか、二人が肩を並べて歩く姿を当たり前のように目にする日が来るだろう。
そう思いながら、真田は自分に出来る精一杯の笑顔をに向けながら、しっかりとした声で告げた。
「ああ、約束しよう。他言はしない、と」
真田くんの恋愛は想像し難いです。
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