先輩の優しさが私にとって刃以外の何物でもなくなったのは、いつの頃からだったのだろう。


覚えているようで、曖昧でハッキリと断言することが出来ない。

ただ、私の先輩に対する感情が「単なる憧れ」から「恋」に変わってからだというのは確かだ。










優しささえも痛みに変わる













恋に落ちる、という表現があるが、恋とは「落ちる」ものなのだろうか?

落ちる、というのは唐突な感じがする。

一瞬で恋に落ちた―――――好きになった、とかそういう表現が「落ちる」には合う。

けれど、私のこの恋に落ちる、は似合わない。

私の恋は、喩えるならば「浸食」だ。

ジワリジワリと染み込んで、気付いた時にはもう手遅れ。すっかり取り込まれてしまっているのだ。







「マネージャー、これ頼む」


バサリと目の前の作業机に置かれた紙の束の、なかなかの質量に目を瞬く。

何だこれは、と紙の束を寄越した跡部部長を見上げると、とても人に物を頼む態度とは思えない威圧的なオーラに気圧されて。

負け戦をするつもりは毛頭ないので、大人しく紙の束の1枚目に目を走らせた。


氷帝学園中等部男子テニス部 担当顧問殿。謹啓、面識のないまま御手紙を差し上げるご無礼を何卒ご容赦下さい云々・・・・・・・。



パラパラと2枚、3枚と斜め読みした所、言葉こそ違うものの全て、練習試合を申し込む内容の文書であるようだった。




「練習試合の申し込み、ですか」

「あぁ」

「これ全部・・・・・・・・ですよね」



ザッと見70枚弱、というところだろうか。結構な量に驚く。




「そうだ。全部チェックして、準レギュラーの練習相手が務まりそうなレベルの学校をピックアップしろ」

「・・・・・・ピックアップしてどうするんですか」

「もちろん練習試合の申し込みを受け入れる。準レギュラー以下のレベルの学校は断れ」



準レギュラー以下、というのが相変わらず引っかかる。

いつからそうなのかは知らないが、レギュラー部員のほとんどは関東大会まで温存され、練習試合はもちろん公式試合すら出ない。



そして、氷帝学園は私立なだけありセキュリティの要塞である。

部外者の入校には許可証が必要であり、他校が氷帝を偵察するのは極めて困難であると言えるだろう。

だから練習試合の申し込みが絶えないのである――――――というのは先輩マネージャーからの受け売りだ。





「・・・・・・判断基準は」

「去年の戦歴で決めろ。決め難いレベルの学校は偵察でもして来て、お前の独断で決めてくれれば良い」

「私の独断・・・・・・ですか」



もう1つ出来た引っかかる所を口にすると、跡部部長は首肯しながら、



「お前のマネージメント力のテストにもなるからな。判断がマズくても構わねぇよ、準レギュラー陣の練習にはなんだろ」



軽い調子で言われたが、部長の言葉はズシッと私の肩に重くのしかかった。




「まぁ、ある程度の実力がねぇとウチに試合持ちかけたりしてこねぇだろうからな。気楽にやれ」


思っていることがキレイに顔に出ていたのだろう。

苦笑した跡部部長に、励ますかのようにポンと肩を叩かれた。
























246・・・・・・うわ、18校もある」



言われた通り、去年の戦歴をチェックして結構な量を落としたものの、元の量が量なだけに18校も残った。

そのうち6校、つまり三分の一が判断し難く保留中―――――つまり、偵察に行って私の独断で決めなければならない。


「名士刈・・・・・・・・ちょっと遠い、かな」


偵察の為の電車賃は経費として部費から落とせるのかな、などと貧乏臭いことを考えていたのがマズかったらしい。

手元の資料に目をやっていたせいもあり、ちょっとした段差でコケた。

それも、すってんころりんという表現がピッタリな程キレイに、だ。



ギャ、顔から――――――――・・・・。




資料で塞がった両手ではガードが間に合わないと悟り、顔面ダイブを覚悟する。

・・・・・・・が、来るべき衝撃はやってこなくて。代わりに、短い吐息が聞こえた。






「間一髪、やな」

「・・・・・・・・・・・・」

「お嬢ちゃん、大丈夫か?」

「・・・・・・・・・・・・・・・ッ」

「おーい、?」

「・・・・・・・・・・・・・び、」

「び?」

「ビックリした・・・・・・・・」



ズルン、と私を片手で支えたまま器用によろけて見せたのは忍足先輩だ。

つまり、私の顔面ダイブをすんでの所でストップしてくれたのは忍足先輩ということである。





「その様子なら、大丈夫そうやな」


先輩は低い声でクツクツと笑いながら、「よっ」という小さな掛け声と共に、私の腰に後ろから回していた右手で助け起こしてくれた。

遅まきながら、先輩に腰回りに触れられたのだと気付き、赤面する。

あぁぁぁあ、プニプニお腹が・・・・・!




?」

「は、ハイッ!」

「何やボーッとしとるみたいやけど。未だショックから立ち直ってへんのか?」


心配そうな瞳に、ジッと顔を見詰められる。

赤くなっているのを悟られたくなくて、「大丈夫です」と消え入りそうな声量で答え、小さく俯いた。



「そんなら良かったわ」


ポン、と頭に手が乗せられた。ポンポン、と続けざまに二度、三度と頭上で手が跳ねる。

顔は見ていないけれど、声のトーンで先輩が微笑んでいることが解る。

どこまでも優しい声に、先輩の手と同じリズムで私の心臓がトクンと跳ねた。




「女の子はどんな小さいもんでも怪我したらアカンからな。気ィつけや」

「あ、ありがとうございます・・・・・」


反射的にお礼を述べてから、ハタと転倒を阻止した上に助け起こしてもらったことを思い出す。


「す、すみませんでした・・・・・!あの、忍足先輩、腕は・・・・!?」

「腕?」



頭を撫でていた手を止め、その腕を見詰める。

首を傾げる先輩に、言葉足らずな質問の補足説明をしようとして、ウッと詰まった。

「私の体重を支えたせいで腕を痛めていないか」と訊きたかったのだけれども、素直にそれを口にする勇気がない。


訝しげに「腕がどうかしてん?」と呟く忍足先輩に曖昧な笑みで答えながら、「あのぅ」とか「そのぅ」とかモゴモゴ口篭もる。





「・・・・・・・・重かった、ですよね?すみません」


しばらくモゴモゴやった挙げ句に出たセリフがそれだったもので、先輩は酷く驚いたらしい。

プッと吹き出すと、ヒーヒー言いながら笑い出した。




「な、なんやソレ。アレか、さっき腕がー言うてたん、が重くて俺が腕痛めたんとちゃうかってことか?」



合間合間に引き笑いを挟みながら言う。

相変わらず忍足先輩は聡い。これが宍戸先輩や向日先輩だったらこうはいかないだろうに。





「だ、だって!選手をサポートするマネージャーが選手に怪我させたらどうしようもないじゃないですかっ」


あんまり笑うものだから、ヤケっぱちに叫ぶと、忍足先輩は再び私の頭に掌を乗せて、



「大丈夫やで、そないヤワやないから。それにお嬢ちゃん、別に重くないで。軽くもないけどな」

「・・・・・・一言多いです」


プイッと顔を反らして掌を避けると、先輩は肩を竦めてから手をジャージのポケットに突っ込んだ。





「しもた、間違えたわ。羽のように軽いでって言えばよかってんな?」

「・・・・・・・そっちの方がもっと嫌かも」


昔のベッタベタなロマンス映画みたいで、と言うと先輩は「えぇやん、ロマンス映画」と笑った。

そう言えばいつだったか忍足先輩はラブロマンスが好きだと言っていたなぁとぼんやり思う。





「・・・・・本当に、痛めてないですよね?」

「あぁ」

「変な感じしたり、いつもと違う感覚だったりしないですか?」

「せぇへんよ」


ホッと息を吐いて良かった、と呟く。すると先輩が、



「ありがとうな」

「・・・・・・どうして忍足先輩がお礼を言うんですか」

が俺ンこと心配してくれたからや」


そう言って微笑むと、先輩はまた「おおきに」とお礼の言葉を口にした。






「こちらこそ、助けていただいてありがとうございました」


私も慌ててペコリとお辞儀をしながらお礼を言うと、先輩は目に優しい色を浮かべながら呟くように言った。



「ホンマ可愛ぇなぁ」



何度か言われているこのセリフには、先輩が言わないだけで続きがある。

妹みたいで、と。




いつの間にジャージから出したのか、再び頭の上で大きな掌が軽く跳ねる。




多くの女生徒に羨ましがられるポジション。

『いいなぁ、ちゃんは。忍足先輩に可愛がってもらえて』

何度そう言われたことだろうか。





始めは、嬉しくて誇らしかったはずのこのポジションが苦痛になってきたのはいつからだったか。

憧れが恋に変わっていく過程で、苦しさはどんどん増すばかりで、それは今も変わっていない。



かといって、このポジションを手放すことも嫌なのだ、私は。





今のままでいれば、先輩は私に構ってくれる。優しくしてくれる。

そんな、狡い打算。





けれど、その手放しがたい「優しさ」ですら最近は痛みを伴うようになってきていて。

私は正直、どうしていいのか解らない。

自分がどうしたいのかも解らない。




忍足先輩はいつだって優しい。

なのに、どうしてこんなにも苦しいのだろう。












「今日は延長願い出してないんやったっけ?」



私の頭の上から自分の顎の下に手を写しながら、先輩が問う。

首肯すると、



「ほな、そろそろ片付けの準備せなアカンな」

「・・・・・・あ、ホントですね」


忍足先輩の言葉に腕時計に目をやると、確かにもうそんな時間だった。





「よっしゃ、一緒に整備道具取りに行こか」



ニッコリ微笑みながら部室に向かって歩き出した先輩の背中を追いかけながら、声に出さずに「好き」と呟いてみる。

やってみた結果、今の段階ではそれが私にとっての精一杯であると思い知らされて。



情けないことに、まだこのポジションにしがみついているしかないのだなぁと思った。









浸食型の恋では、優しささえも痛みに変わるのだ。

そして、今の私には耐えるしか手段がない。





















I wish the pain away. closed.
企画Endless myth提出作品。
楽しく書かせていただきましたが、相変わらず短編が上手く纏められなかったという体たらく。



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