例えば恋愛の、それも修羅場の常套句で「仕事とあたし、どっちが大事なのよ!」なんていうのがあるけれど。

そんなの比べられる訳ないじゃん、と呆れ気味に思う―――そういう思考回路を持っているタイプのはずだった。

そういう思考回路を持っているはずだったんだ、私は。










かみ締めた唇










宿題を解きながら、頭の片隅では大石くんのことを考える。

最後の難問の応用問題。でも、大丈夫。数学は割と得意な方だ。

答えはいつだってひとつだけで、明快。それが数学の良い所。


だから、応用問題だろうと、ちょっと考えれば解けるはずだった。

なのに、いつの間にか頭の中は数学を離れ、大石くんで一杯になってしまった。





夜ご飯、何食べたのかなぁ、とか。

明日は部活がないから一緒に帰れるよね、とか。

そんな他愛もないことをつらつらと考え続けて、ハタと気付く。

―――きっと、こんなこと考えてるのは私だけだろうなぁ、って。











青学男子硬式テニス部は、全国大会への切符を手に入れたばかりだ。

だから、副部長である大石くんの頭の中がテニスで一杯でも、それは仕方のないことで。

不満に思っちゃいけない、と解ってはいるんだけれども、ドロドロとした本音が胸の中で燻ってしょうがない。







――――テニスばっかりじゃなくて、もう少し私に時間を割いてくれてもいいんじゃない?


そんなことは死んでも言えない。

私のプライドが許さないし、大石くんを困らせてしまうだけだ。





























そんな調子で昨晩、宿題中に散々気が散りまくっていたが故に、結局応用問題は終わらなくて。

始業時間前に、教室の机の上で応用問題に挑む羽目になってしまった。




「おはよう、。―――あれ?珍しいね、が宿題忘れるなんて」


にこやかで、爽やかな気持ちの良い挨拶をしてくれる大石くんに、和やかに「おはよう」と挨拶を返しつつも、私の内心は穏やかではない。


―――ああ、こうなることが解っていながらどうして無理矢理にでも昨日解いておかなかったんだろう?

大石くんの隣の席なのだから、否が応でも彼の目に付くに決まっているのに。



宿題を提出日当日にやっている姿など、大石くんに見られたくない。既に後の祭りだけれども。

しかし、後の祭りだと知りつつも、往生際の悪い私は言い訳を試みたりする。人間諦めないことが大事だ。・・・・多分。



「忘れた訳じゃないの。ちゃんと持って帰ってやったの!でも、最後の応用問題が家で解けなくて・・・・」



言い訳の音量が、段々と小さくなる。

ああ、やっぱり人間諦めが肝心なのかも知れない。これも最早、後の祭りだけど。



けれど当然ながら、大石くんには私の苦悩など知る由もない。

その為、彼は私の言い訳に素直に納得して頷いた。



「そうだね。確かに最後の応用問題は少しややこしかったもんなぁ」


私の手元の教科書を覗き込み、しみじみと頷く。

私はといえば、大石くんの顔が近くに寄ってきたことで、宿題どころではない。





――――大石くん、顔!顔、近い!!





応用問題などそっちのけで、ドキドキどころかドッカンドッカン言っている心臓の音を、如何に大石くんに悟られないようにするかに頭を巡らせていた。

一方、大石くんはこちらの事情などお構いなしに、私の手元を見詰め続けている。

そして、「うん」と小さく呟くと、おもむろにトン、と右手の人差し指で、私の教科書の応用問題を示した。



さ、この問題がひっかけ問題だって気付いてる?」

「――――ふぇっ!?」




素っ頓狂な声が出た。

大石くんは驚いたように私を見詰めたが、驚いたのは大石くんだけでない。私だって驚いた―――自分でやっておいて何だけれど。

カーッと体温が上昇するのが解った。見えないけど、アレだ、絶対そうに決まってる。断言してもいい、私の顔、今真っ赤だ。



驚いた大石くんは目を丸くしていたけれど、やがて小さく吹き出して、クスリと笑った。



―――――笑われちゃった。



大石くんが微笑んでくれたのは嬉しいけれど、笑われるようなことをしてしまったのは恥ずかしい。

そんな羞恥から視線を手元に下げると、大石くんの指と、それが指し示す問題が目に入る。




「気付いてなかったみたいだね。――――この手のひっかけ問題、確かに解り難いからなぁ。俺もしばらく気付かなくて、随分悩まされたよ。これはね、こっちじゃなくて、この公式を使うと解りやすいんだ」


大石くんは優しく言うと、丁寧に問題の解説をしてくれた。

これ以上、彼に呆れられる訳にはいかないと、私は必死で解説に集中する。

必死にならないと、大石くんの顔が相変わらず近い位置にあるとか、大石くんが私の為に解説してくれてるとか、そんなことで頭が一杯になってしまう。

そして、そうなると――――本末転倒なことに、大石くんの解りやすい解説がちっとも頭に入らず、ますます大石くんに醜態を晒す羽目になってしまうのだ。






「そうそう、そこは問2と同じ公式。・・・・・で、あとはここのひっかけに気を付ければいいだけ―――うん、出来た」


さすがだね。飲み込みが早いや、と微笑む大石くんに、緩く首を振って応える。



「大石くんの教え方が解りやすいからだよ」

「そう言ってもらえると嬉しいな。――――あ」



、ちょっとごめん」―――そう断ると、大石くんは教卓の方へ歩いて行った。

大石くんが向かった先には、プリントの山を抱えたクラスメイトの女の子が居る。

紙の束は重い。顔を赤くながらプリントを支える彼女に、大石くんがよく通る声で呼びかけた。



「山田さん、良ければ俺が持つよ」


大石くんの呼びかけに、山田さんの顔が綻ぶ。

やはり、プリントが重くて困っていたらしい。その証拠に、


「ありがとー、大石くん。助かるよぉ」


地獄に仏、とばかりに微笑みながら、大石くんとプリントを分け持つ。




そんなやり取りを見ながら、私はやっぱり大石くんって素敵だなぁとしみじみする。

彼はいつだって、誰に対しても分け隔てなく優しいのだ。




























「あ、ちゃん」


昼休み。食後のデザート代わりのジュースを買いに購買へ向かっている途中、明るい声に呼びとめられて振り返ると、菊丸くんがニコニコと手を振っていた。

菊丸くんは、大石くんの友達で、パートナーだ。明るい、人好きのする性格をしている。

大石くんと付き合うようになってから、菊丸くんは私を見かけると必ず声をかけてくれるようになった。

大石くんのことが大好きだから、大石くんと付き合っている私とも仲良くなりたいのだという。

臆面もなく、素直にそう言う菊丸くんは、大石くんと同じくらい素敵な人だ。






「そだ、ちゃん。大石から聞いた?」

「え?」

「今日の部活、休みになったんだよん――――って・・・・その様子だと、聞いてないみたいだねぇ」


キョトンとした私を見て、菊丸くんは「仕方がないなぁ、大石は」と唸った。

不満そうに、世話が焼けるだとか、気が利かないだとか、ブツブツ言っている。

やがて、仕方がないなぁと言わんばかりに肩を竦めると、菊丸くんは私に微笑んだ。


「今日部活なくなったからさ、ちゃん、大石と一緒に帰れるでしょ?誘ってみたらどうかなぁ」


ウインクしながら言われた言葉に、胸が期待で膨らんだ。

大石くんと一緒に帰れることは滅多にない。

「遅くなると親御さんが心配するから」と、部活が終わるまで大石くんを待つことを、私は許されていなかった。

彼の部活がない日は私が委員会で、大石くんには先に帰ってもらえるようお願いしてある。

普段自分が待っていないのに大石くんを待たせることなんて出来ないのだ――――たとえ、彼が「構わない」と言っていても。



―――――でも、今日は一緒に帰れるかもしれない。



そう思うと、顔がにやけるのを止められなかった。

ウキウキして、ついつい落ち着きなくソワソワしてしまう。




「菊丸くん、教えてくれてありがとう」

「どーいたしまして」


じゃあね、と手を振る菊丸くんに手を振り返しながら、「大石くんを探さなきゃ」と思う。

どこに居るだろう?

菊丸くんと一緒じゃないとなると、手塚くんとミーティングをしながらお昼を食べているのかもしれない。

よく、昼食の時間を利用して部活について相談し合い、その結果を竜崎先生に報告しているのだ。

だとしたら、今頃は竜崎先生の所にいるかもしれない―――。

そんな推理を広げつつ、「行くだけ行ってみよう」と、職員室へと足を向けることにした。






























推理はそれなりに的を射ていたらしい。

探し始めて直ぐ、幸運にも大石くんに出会うことが出来た。

職員室前の廊下で後輩らしき女の子たちと話していた大石くんは、私に気付くと柔らかく微笑んで、


「やぁ、。――――購買に行ってきたんだ?」


私の手にしている紙パックのジュースを見ながら、そう問いかけた。

それに首肯しながら、大石くんと二人の女の子たちに近付く。



すると、女の子のうちの一人が申し訳なさそうに口を開いた。


「――――でも、本当にいいんですか?大石先輩、今日、部活お休みになったんでしょう?」



話が見えず、面食らって立ち止まる。

よほどマヌケな、訝しむような表情を浮かべていたのだろう。

それを見た女の子が、気を利かせて関係ない私にも解るように説明をしてくれた。


「大石先輩たち、放課後に掲示物の貼り替えを手伝ってくれるって言って下さって・・・・・」

「―――掲示物?」


何の?という疑問には、大石くんが答えてくれた。



「部員募集のポスターとか、そろそろ掲示期限が終わるからね。校内新聞とかも、丁度貼り替えの時期なんだよ」


代わる代わる情報を保管するように話す二人の女の子たちの話を聞くに、どうやら掲示物の貼り替えは学校週番の1年生の仕事だったらしい。

週番は男女2人ずつの計4人で行うが、男の子2人は今日に限って、揃って病欠なのだと言う。

そして、たまたま職員室でそれを知った大石くんが、今週は量が多いはずだから自分も手伝うと名乗り出たのだと言う。




「彼女たちじゃ、高い所の掲示とか届き難いしね」


大石くんの言う通り、女の子たちは1年生の中でも小柄に見えた。

確かに高いところの掲示物を貼り替えるのは、彼女たちには重労働だろう。



困っている人には必ず救いの手を差し伸べる。

やっぱり大石くんは素敵だ。


改めて大石くんの素敵さをしみじみと確認しながら、私は嫌な予感を覚えていた。

先程、彼女たちは「放課後に大石くんが掲示物の貼り替えを手伝ってくれる」と言っていた。

つまり、大石くんの放課後には予定があるということだ。



―――― 一緒に帰れないかもしれない。


そう思い、慌てた私は、自分も手伝うと申し出た―――「手伝おうか?」と。

けれど、この申し出は、大石くんにやんわりと断わられてしまった。



「大丈夫だよ。手塚も手伝ってくれるから。四人もいれば十分だしね」



手塚くんも掲示の貼り替えを手伝うというのは初耳だった。

この場に姿は見えないけれど、やはり大石くんは手塚くんと一緒に昼食を取っていたらしいな、と思う。

そういえば女の子たちも、さっき「大石先輩たち」と言っていたっけ、と思い返す。



「でも、ありがとう、


「気持ちだけ、もらっておくね」――そう微笑む大石くんを目の前にして、私は作り笑いをして後退ると、逃げるように教室へ帰るしかなかった。























教室へ戻った頃には、膨らんでいた期待はすっかりしぼんでいた。


大石くんのことだ。

一緒に帰ろうと誘えば、きっと「待たせちゃ悪いから」と断るだろう。

私が構わなくても、大石くんが構うのだ。

一緒に帰りたいと私が頼んでも、大石くんを困らせてしまうだけ。それはいけない。

だから、寂しく一人で帰るしかない。







「・・・・・・はぁ〜〜〜〜〜〜」



無意識のうちに、大きな溜め息が出ていた。

――― 一緒に帰りたかっただけなんだけどなぁ。

というか、付き合っているのに一緒に帰ることも出来ないなんて・・・・・。




付き合う前は、大石くんと付き合うことが出来るなら、死んでもいいと思っていた。

けれど、実際付き合えるようになると、手を繋ぎたい、一緒に帰りたい、名前で呼んで欲しい・・・・欲張りになる一方で、満足することがない。

欲張ってはいけない。その教訓は、昔話でも語り継がれてきている。

そう解ってはいるものの、私は欲深くなるばかりだ。







留まることを知らない自分の欲に辟易していた。そのはずだった。

なのに、思考がおかしな方向へと傾いて行く。



――――大石くんは、私と一緒に帰りたいとは思っていないんじゃ・・・・?

もしかして、告白を受け入れてくれたのも、断れなかっただけ、とか。




そんなことばかり考えてしまう。疑心暗鬼。―――あぁ、嫌だと首を振る。

OK
してくれた大石くんに対して、なんて失礼なことを思ったんだろう?

大石くんはあの時、確かに言ってくれた―――「俺も好きだよ」と。

それすらも疑うだなんて、と自己嫌悪に陥りつつも、でも大石くんの態度じゃそう思わざるを得ない、と自分を正当化するもう一人の私が居る。





仕方がない、そんなことは解り切っていたことだ。

大石くんには、大事なものがたくさんある。それだけの話だ。

そしてその大事なものに順序をつけていくと、必然的に私が後回しになってしまうだけで。

・・・・・・・でも、何かそれって、ちょっと悔しいかもしれない。



キュ、と軽く唇を噛む。

少しだけ、屈辱的だった。

私は何かに夢中でいても頭の片隅で大石くんのことを考えていたりするけれど、大石くんはそうじゃないんだな、なんて。

そんなことばっかり考えてしまった。
























放課後になっても校内に残ってしまったのは、知らずのうちに期待しすぎてしまったせいだろうと思う。


もしかしたら、大石くんとバッタリ昇降口で会って一緒に帰れたりするんじゃないか―――。

そういった、都合の良い妄執に取り憑かれていたのだ。

そんな訳で、私は未練がましく図書館で少し時間を潰してみたりした。

ちっとも頭に入ってこない文字の羅列に辟易し、書棚に小説を戻す。

ストン、と収まった本を見て、ようやく「何をやってるんだ、私は」と我に返ることが出来た。

昇降口で大石くんとバッタリ遭遇するならば、もれなく一緒に行動しているであろう手塚くんとも遭遇出来るだろう、と気付いたのだ。

たしか大石くんと手塚くんの家は同じ方向だったはずだ。

―――――つまり、どの道、一緒に二人きりで帰ることは不可能な訳で。

気付いてしまえば未練も吹っ切れて、「仕方がない、寂しく一人で帰るか」と開き直ることが出来た。


























帰ろうと階段を下っていると、後ろから名前を呼ばれた。



「――――あっれぇ?ちゃん?」


底抜けに明るい呼び声の主が誰か、振り向かなくとも解る。

彼は目立つし、何て言っても大好きな大石くんのパートナーだ。


「菊丸くん」


折角情報を貰ったのに活かせなかったよ―――と心の中で愚痴っていると、菊丸くんは首を傾げた。

目をパチクリと瞬く。女の子のような仕草だったが、それが菊丸くんに、妙に似合っている。



「何で未だ校舎に残ってんの?それに、大石は?」



一緒じゃないの?と矢継ぎ早に質問を浴びせられる。

大石くんが一緒じゃないのか、と訊かれたことにチクリと胸が痛む。




「大石くんは、一緒じゃないんだ」

「えぇ―――!?」


「何で?誘わなかったの??」と不満そうに言う菊丸くんに苦笑しながら、誘えなかったのだと告げる。

その答えに、菊丸くんはますます不満そうに唇を尖らせた。

顔にありありと、「折角教えてあげたのに!」と書いてあったので、慌てて「仕方がなかったのだ」と弁解する。



「大石くん、学校週番の手伝いで、掲示物の貼り替えをするって言ってたから・・・・・誘えなかったんだ」

「そんなの、一緒に手伝ってあげればいいじゃん」

「手伝おうかって言ってみたんだけど、断られちゃって・・・・・」

「じゃ、終わるまで待つって言えばいいんだよ」


さらっと言われた言葉に、ムッとする。それが出来れば苦労しない。


「でも、そんなこと言ったって、何にもならないじゃない!」


急に声を荒げた私に驚いたように、菊丸くんが目を丸くした。

が、直ぐに調子を取り戻すと、「何で」と不満そうに問い返す。


「だって、そんなの私のワガママで、大石くんを困らせちゃうだけだもん」

「いーじゃん、困らせてあげれば」

「そんなこと出来ないよ・・・・!」

「俺はいっつもやってるけど?」


ニカッと悪戯っ子のように笑う。

確かに菊丸くんは自由奔放というか、しょっちゅう大石くんを振り回している。



「・・・・・でも。私と菊丸くんは違うし」


菊丸くんは、割と何をやっても怒られないタイプの人だ。

他の人がやったら怒られるようなことも、「仕方がないなぁ、菊丸は」で済んでしまったりする。

けれど、当然、本人にそんな自覚はないのだろう。大真面目に「うんうん」と頷きながら、


「男と女だもんね。だからさー、ちゃんはもっとワガママ言っていいと思うよ?俺の姉ちゃんも言ってるもん、ワガママは女の特権だ!って」


と、ちょっとズレた返答を返してくれた。

そして、困ったように微笑みながら、真面目な声で話し出す。




「大石ってさ――――すっごい真面目じゃん?」


コクリと頷くと、菊丸くんは「やっぱそう思うよね」と苦笑した。


「だからさ、待っててって言えないんだよ。ちゃんがお家に帰るのが遅くなったら危ないとか、そんなことばっか気にしちゃってさ、「待ってて欲しい」っていう、自分の希望は二の次になっちゃう」


「大石ってさ、そーいう奴なんだよ」と菊丸くんは言った。



部活にしろ、今回の手伝いにしろ、終わるまで私を待たせるのが申し訳ないとか親が心配するとか、そういったことを気にして、そっちを優先する。

けれど、もしかしたら、大石くんも私と一緒に帰りたいと思ってくれているかもしれない。

そう考えたことはなかったので、驚いた。

菊丸くんは私と帰りたくないのかなぁとか、悪い方へ悪い方へばっかり考えが行ってしまって。





「菊丸くん・・・・・ひとつ訊いてもいいかな?」

「うん、いいよ」

「大石くんに―――終わるまで待ってていいかなって訊いたら、OKしてくれると思う?」




恐る恐る尋ねると、菊丸くんはニヤッと意地悪い笑みを浮かべた。


「それは、自分で確かめてみなよ」

「――――うぅ・・・・・断られそうだもん」

「万が一大石が断ったら、俺にメールしてよ。ビシッと叱っとくから!パートナーとして!」


「任せなさい!」とドンと胸を叩く。

・・・・・・励まされているはずなのに、脱力してしまうのは何故だろうか?

そんな菊丸くんに「ほら、とにかく行動あるのみ!」と背中を押され、私は再び大石くんを捜索する為、校内を歩き始めた。























まず始めに見付かったのは、手塚くんだった。

片手に回収したらしいポスターを抱えながら、「大石なら視聴覚室の辺りを担当しているはずだ」と教えてくれた。

言われて、「そういえば」と思い出す。何故かあの辺りには、無駄に掲示板が乱立している。

「ありがとう」とお礼を言った私の顔を、手塚くんはまじまじと凝視見詰めた。


―――何か付いているのだろうか?それとも、どこか変、とか?


そう悩み出した頃、ようやく、手塚くんがポツリと言葉を発した。


「噛んだのか?唇が切れて、血が出ているぞ」


言われて唇を舐めると、鉄の味がした。確かに血だ。

大石くんに「終わるまで待っていてもいいか」と訊こうと意気込みすぎて、唇を噛み締めていたらしい。

カァ、と体が瞬時に熱を持つ。

「・・・・・そ、そうなの。うっかり噛んじゃって」と不自然に誤魔化しながら、再びお礼を述べて、手塚くんと別れた。
























手塚くんの情報に従い、視聴覚室の方へ足を向けると、手塚くんと同じように片手に剥がしたポスターを抱えた大石くんが廊下を歩いていた。



「―――あれ、?」


大石くんに名前を呼ばれ、ドクンと心臓が高鳴る。



「どうして未だ居るんだ?今日は委員会じゃないだろ?―――もうこんなに暗いのに」


驚いたように話し出したものの、大石くんは途中から眉を顰め出した。

チラ、と窓の外を見て、溜め息を吐く。大石くんの言う通り、もう疾うに日は落ちている。

廊下の蛍光灯が点いているのが、その何よりの証だ。



「・・・・・えぇと」


言わねば、と意気込んで口を開いたものの、言葉が続かない。

キュウ、と唇を噛み締める。また、血の味がした。



「誰かと一緒に帰る約束でもしてるのかい?」


黙り込んだ私に気を遣ってか、大石くんが質問してくれる。

フルフルと首を振って答えに代えると、大石くんの表情が曇った。

困らせてしまったのか、怒らせてしまったのか。

どちらか解らないけれど、大石くんが私に良い印象を抱いてないのは確かだった。

それが無性に悲しくて、というか「私、彼女なのに」とか高慢なことを思ってしまって、
もういいや、どうにでもなれ――断られたら菊丸くんに言って怒ってもらえばいいんだし――と、私は開き直ってしまった。


「―――大石くんと一緒に帰りたくて。終わるまで、待っていようかと思ったんだけど」


言ってから、あぁ、言ってしまった――と大石くんを見ると、ポカンと口を開けていた。

少しして、冷静になったらしい大石くんは、明らかに困惑していた。



―――困らせたい訳では、なかったんだけどなぁ。



困惑している大石くんを見ているのがしのびなかった。

菊丸くんに振り回されて、困らされている大石くんは、困りながらもどこか楽しそうだった。

困ってはいるけれど、困惑してはいないのだ。

けれど、私はどうも、菊丸くんのようにはいかないらしい。

困惑させてしまったことが、予想通りだとはいえ、やっぱり、それなりにショックだった。



「・・・・ごめん。迷惑だったよね。帰るよ」



「バイバイ」と口にして、踵を返す。

血の味が口に広がって、また唇を噛み締めていることに気付く。

でもきっと、そうでもしていないと、私は泣いてしまうんだと思う。


足早に去ろうと廊下を歩み出すと、パシッと腕を掴まれた。

「え」と振り返るのと、大石くんが「待って」と言うのは同時だった。



「教室で待っててよ。もうすぐ終わるはずだから」


始め、何を言われているのか理解出来なかった。

教室で待っていて?―――それって、つまりは。

その言葉の持つ意味を理解してからは、今度は私が困惑する番だった。



「・・・・・いいの?迷惑なんじゃ」

「こんな暗い中に一人で帰られる方が迷惑だよ」


参った、と言わんばかりの表情で言われて、少しムッとする。


「・・・・・でも、委員会の日とかはいっつもそうだけど?」

「え?さんと一緒に帰ってるんじゃないの?」


さんというのは、同じ委員会の同級生だ。

フルネームをという彼女は、私の一番の友達でもある。


「・・・・ちゃんは、彼氏と一緒に帰ってるから」

「―――じゃあ、いつもこの暗い中を一人で帰ってるのか!?」


その通りなので頷くと、大石くんは目を剥いた。


「危ないじゃないか!―――何かあったらどうするんだよ!」

「そんな大袈裟な・・・・」

「大袈裟じゃないよ。何かあった後じゃ遅いんだから・・・・」


ブツブツとお小言を言っていた大石くんが、やがてポツリと「決めた」と呟いた。


「これからは、俺が送っていくから。が委員会のある日」

「え」

「終わるまで教室で待ってることにするよ」



だから、一緒に帰ろう―――。

夢のような言葉をもらいながらも、私はますます困惑していた。



「え、でも悪いよ。大石くん、部活ない日じゃない」

「いいよ、別に」

「よくないよ――」

「俺は構わないから、気にしないでよ。ね?」


優しく、諭すような口調で言われても、納得出来なかった。


「何で!?私にはいっつも、大石くんが部活終わるまで待ってないで帰れって言う癖に!」


叫ぶように言うと、大石くんはキョトンとした顔をした。


「だって、悪いし、遅くなると危ないじゃないか」

「悪いのは私も一緒だよ」


ムスッとした口調で言うと、大石くんは困った顔になった。

それを見ながら、私は言葉を次ぐ。


「だからさ――大石くんが私の委員会を待ってくれるんなら、私も大石くんの部活を待つことにする」


宣言するように言うと、大石くんはますます困った顔になった。

けれど、私の良心はちっとも痛まない。だって、これでおあいこだ。


―――」

「いいじゃない。そうしたら、一緒に帰れるでしょ?」


再び大石くんが、キョトンとした顔になる。

それが少しだけ可笑しくて、私は笑ってしまった。


「あのね、菊丸くんのお姉さんがワガママは女の特権だって言ってたんだって」


だから言うんだけど、と前置き――もとい、言い訳をしながら、言葉を続ける。


「私、大石くんと一緒に帰りたいんだけど?」


ハッキリキッパリ、言葉にして言うと、割と鈍い大石くんにもしっかりとその意味が伝わったようで。

大石くんの顔が、みるみる赤くなり、「リンゴのような」という形容がピッタリの色になった。



「す、直ぐ終わると思うから!教室で待ってて」


さっきと同じことをどもりながら言い残すと、大石くんは走り去った。

その後ろ姿を眺めながら、どうやら菊丸くんにメールをしないで済みそうだと、私は少しピントのズレたことを思って。

それから、ジワジワと湧いてくる、大石くんと一緒に帰ることの出来る喜びで顔がにやけてしまうのに、必死で耐えていた。

――――――愛されてるなぁ、私。なんて思っちゃったりなんかしたりして。























'' I miss you. '' closed.
恋とは嬉しく、楽しく、時に不安なものでしょう。


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