一日の最後に、ベッドの中で必ずやることがある。

菊丸くんと話した言葉を何度も思い出すことだ。



最早日課となりつつあるこれは、実に一長一短で。

嬉しくなると同時に虚しくなるという、相反する特性を併せ持っている。














交わした言葉















席替えで不二くんの隣の席になったことがキッカケで、菊丸くんの私の呼び名が変わった。

さん、からちゃん、へ。何も前触れもなく、突然に。


急に名前で呼ばれ、茹で蛸のようになった私に対し、菊丸くんはあっけらかんと

「俺のことは、英二でいいよん」

などと言い放ったが、本人に太鼓判を捺されつつも、私の呼び方は未だに「菊丸くん」のままだ。

















「名前で呼んであげればいいのに」



ポツリと呟かれた言葉の意味が解らずキョトンとした私に、不二くんは苦笑しながら言葉を次いだ。



「英二のこと。名前で呼んであげた方が喜ぶと思うよ?」



カシャンとシャープペンシルを落とした私に微笑みながら、



さん、そこ違うよ。問4

「え、あ・・・・・・・・えぇと」

due to... owing to... と同じ意味」


私の手元のプリントをコツコツと人差し指で叩き、プリントの上に転がったままのシャープペンシルを拾い上げる。


「はい。・・・・・・・さんなら、さっきのヒントがあれば解けるだろう?」

「あ、ありがとう・・・・・・」



渡されたシャープペンシルを持ち直し、おどおどしながら視線をプリントに落とす。


「え、と・・・・・。問4が違うんだよね」

「うん。due to... owing to... と同じ意味だから?」

「えっと・・・・・。あ、原因になるのか」

「その通り」


不二くんに微笑みかけられ、顔が赤くなるのを自覚した。

美形の笑顔は破壊力がとんでもなくて困る。




「それで、さんは」


名前を呼ばれ、顔を上げる。




「何で英二のこと、名前で呼ばないんだい?」



過ぎたと思った話題を蒸し返され、再びシャープペンシルがガシャンと転がる。

慌ててシャープペンシルを拾い上げると、



「呼んでくれない、って英二が嘆いてたよ」


「な、何でって言われても・・・・・・」


ゴニョゴニョと誤魔化す私を見詰めながら、不二くんは綺麗な笑みを浮かべた。




さんは、英二のことが好きなんだと思ってたんだけど」


だから、喜んで「英二」って呼ぶんじゃないかなぁと思ってたよ。

何気ない調子でサラリとそう言う笑顔の裏に、巧みな計算の上で、不謹慎だと思いつつも面白がっているような気配を感じた。




「ふ、不二くん!声大きいっ・・・・・・」


ギャーと頭の中で叫んでいるものの、人前で大声で喋ることが苦手な私には、掠れた小さな声で不二くんに情けなく抗議するのが精一杯で。

そういうことに聡くて解っているだろう不二くんがわざわざ言うということは、つまりは私にはっぱかけているということでもあるのだけれど。


有難いと言えば有難いものの、困っているのも事実。




「そんな深刻にならないで。言うは一時の恥だよ」


優雅に微笑みながらことわざを文字り、クスリと笑う。

私のプリントを眺めながら頷いて、


「・・・・・・うん、もう大丈夫だと思うよ」


「何が大丈夫なの?」


「え?」



ひょい、と不二くんの横から菊丸くんが顔を覗かせた。







「・・・・・・・・・・きっ、菊丸くん!?」


いつからそこに、と焦る私などおかまいなしに、




「おはよんちゃん」


呑気に挨拶をしてくる。私がどもりながら挨拶を返すと、それを待っていたかのように不二くんが話し出す。



「英語の課題のプリントだよ。さんの列、今日当てるって先生が仰ってただろう」

「英語のプリントが大丈夫ってこと?」


どういう意味?と首を傾げる菊丸くんに、不二くんが説明する。


さんに、当っているか不安だから答え合わせをしてくれって頼まれたんだ」

「そうなんだ」


言いながら菊丸くんが私を振り返ったので、




「うん。不二くん、英語得意だから・・・・・」

「英語だけじゃなくて、何でも得意だよなぁ、不二は」


一番得意なのは古典らしいんだけどさ、と菊丸くんが不二くんの前の席に腰掛ける。

心臓がバクバクと鳴り響き、体温が上がるのが解って、顔が赤くなっていないかが気がかりだった。


「今朝、目玉焼き作ってたら黄身が双子ちゃんでさー」

「あれ?英二、前もそんなこと言ってなかったっけ」

「そうそ!最近ツイてるみたい。ラッキー」

「ハハッ、千石の真似かい?」

「へへ、似てるだろ?・・・・・・・ちゃんは、千石知ってる?」



ふいに、菊丸くんが私に会話を投げた。

面食らって返事を返せないでいると、ペロリと舌を出して、


「なーんてねん、知らないよね。っていうか知らなくって当然!」

「・・・・・・・えぇと、その。千石くんて、千石清純くんのことよね。ラッキー、って清純くんの口癖だし」


おずおずと問うと、菊丸くんは鳩が豆鉄砲を喰らったような顔になった。目が点だ。

不二くんも驚いたようで、意外そうに、


「・・・・・さん、千石と知り合い?」

「うん。近所の家の子が、山吹のテニス部のマネージャーをしてて、何度か試合を観に行ったことがあるから」


その時に清純くんにも会って、と説明すると、得心したように不二くんが軽く頷いた。



「世間は狭いってこういうことを言うんだね。ねぇ、英二」

「・・・・・・・・・・・・・・・・」

「英二?」


黙り込んでしまった菊丸くんに、不二くんが不思議そうな顔をする。

どうしたんだい、英二?という不二くんの問い掛けにも、菊丸くんは返事をしない。ただ、




「・・・・・・・・・・・・・・」


と、黙っている。

何故か、おもちゃを取り上げられた子どものような表情をしながら。





クス、と不二くんが笑う声がしたので彼を見る。

穏やかに微笑んでいる不二くんには、何故菊丸くんがだんまりを決め込んでいるかが解ったらしい。

僕がいると言い難いかな、と呟いて席を立った。



「え、不二くん・・・・・・!?」

「馬に蹴られたくはないからね。手塚に部活の予定でも聞きに行こうかな」

「何言って・・・・・・・・?」

さん」

「な、何?」


ス、と不二くんが私の耳元に唇を近付ける。

私にだけ聞こえるような音量で、



「名前で呼んであげて。きっと英二、喜ぶよ」


それだけ囁くと、じゃあね、と言いながら教室を出て行く。















「・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・」




残された空気のあまりの気不味さに、不二くんを恨む。



どうすればいいのか打開策がサッパリ解らず困惑していると、ようやく菊丸くんが口を開いた。




ちゃんさぁ」

「・・・・・・・・・・は、はい!?」


驚いて、声がひっくり返った。・・・・・・・・恥ずかしい。


しかし、そんなこちらの事情など知らない菊丸くんは気にしない様子で、





「もしかして、俺のこと嫌い?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・へ?」



一瞬意味が解らず、間抜けな返事を返した。

しかし、直ぐにその質問の意味する所に思考が至り、慌てて否定する。


「そ、そんな!嫌いな訳ないよ・・・・・・・!!」


むしろ、私は菊丸くんのことが・・・・・・・・、とはもちろん言えない。




「な、何でそんなこと・・・・・・・・?」



好きな人に嫌ってる、なんて誤解をされるだなんて。

自己主張が下手な自分が本当に嫌になる。






「・・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・菊丸くん?」



再び黙ってしまった菊丸くんに、泣きそうになる。





お願いだから、何か言って。









その願いは、直ぐに叶った。




「俺のこと、名前で呼んでくれないから」


嫌われてるのかな、って思って。





彼が呟くように言った言葉は、注意していないと聞き逃してしまいそうな音量だった。



「・・・・・・・・・・・・・は?」


意味が解らず怪訝な声を出した私を、菊丸くんはキッと睨み付けた。



「だから!千石のことは「清純くん」て名前で呼ぶ癖に、何で俺のことはいつまで経っても「菊丸くん」のままっ・・・・・・・・」



そこまで叫んで、ガバ、と両手で頭を抱える。






「・・・・・・・・・き、菊丸くん?」

「・・・・・・・・ないで」

「え?」



頭を抱えた手を下ろし、今度は顔を覆いながら、



「あんま見ないで。俺、超格好悪い」



うぅ、と嘆くように唸る菊丸くんに、目が丸くなる。

何だか、今の言葉・・・・・・・。菊丸くんが、私に名前で呼ばれたがっているような・・・・・・?





先程の不二くんの言葉が甦る。



『名前で呼んであげて。きっと英二、喜ぶよ』









ゴクリ、と喉が鳴る。

心拍数が急上昇して、胸が破裂しそうに痛い。





やっぱり止めようか。

でも、今言わないと、きっとずっと言えない。ううん、呼べないままだ。









すぅ、と息を吸い込み、深く吐き出す。

落ち着け、落ち着け。声がひっくり返らないように、気を付けないと。




何度か深呼吸を繰り返し、心を落ち着ける。

唇を甘噛みしてから、恐る恐る口を開く。



「え、英二くん・・・・・・・・?」





バ、と菊丸くんが顔から手を離した。

大きな目がまん丸になっている。



「もっかい言って!」

「え」

「もっかい!」

「・・・・・英二、くん?」

「もう一度!」

「英二くん」

once more!」

「英二くん」


何故英語、と内心ツッコミつつ、言われるがままに彼の名前を呼ぶ。




「・・・・・・・・・・へへっ」



呼んでくれて嬉しい、と照れもせずに満面の笑みで言う菊丸くんに、こっちが照れる。

狼狽えて彷徨わせていた視線に、急に小指が飛び込んで来た。


「これからは、俺のこと名前で呼んでよね!」



約束!と小指を差し出す。

どうやら指切りをしようと言っているらしい。



「・・・・・・・・・・え」




指切り!?

名前で呼ぶだけでも精一杯なのに、指切りだなんて、ハードルが高すぎる。






「わ、解ったから!約束するよ!!」


オロオロと言う私に、菊丸くんはホイ、と小指を近付けてくる。


「じゃあ指切り」

「・・・・・・・・・・はい」



恐る恐る、小指を絡める。

ゆびきった、と菊丸くんが歌い終えるまでの間が永遠に思えるくらいに長かった。









「英二、直ぐに先生来るよ」


いつの間に戻っていたのか、不二くんが椅子を引きながら言う。

その言葉通り、ガラリと扉が開き、担任教師が教室に入ってくる。



菊丸くんが自分の座席に戻って行く。

その後ろ姿を見詰めながら、不二くんが口を開いた。



「英二、喜んでただろう?」

「・・・・・・・・・何だか不二くんには、何でもお見通しみたい」

「君たちが解りやすすぎるんだよ」



うぅ、と呻くと不二くんはクスリと笑った。




起立、と日直の号令が掛かる。


「名前を呼ぶだけでこんなに時間が掛かるんじゃ、この先英二は大変だ」

「え?」


不二くんの言葉は、皆が椅子から立ち上げる音で掻き消されてしまい、私の耳に届かなかった。









「不二くん、さっき何て言ったの?」



号令が終わってから聞き返しても、不二くんは「こっちの話だよ」と答えてはくれなかった。






















slow step」への寄稿作品です。
お題から膨らませたはずなのにどうしてお題から逸れた話になってしまうのでしょうか・・・。


お題提供:セレナイトな月に抱かれて*









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